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方法論についてのよしなしごと 「擬」によせて

せっかく同人誌を出す(前記事参照)ので、ちょっと小説の方法論についてのことなどつれづれなるままに。

むかし小説を人に見せたときに「幾何学的な作品ですね」と言われたことがある。なるほどそういうものかしらん、などと当時は妙に納得したものだった。
今考えてみるとそれは自分の創作の仕方に起因するのだと思われる。
基本的に、僕は作品のおしまいから書いていく。
アイディアが浮かんで、必要な要素を設定して、結末がそれに向かうように書いていく。抽象的な思いつきに過ぎないアイディアに肉付けして、足りないものを埋めていく。
プロットを埋めていく、というのとは少し違うかもしれない。プロットというよりは、全体の大きな構図があって、その空白を埋めるために少しずつ小さなお話で埋めていく。もちろん、方向性の転向というものはしばしばあるもので、ある程度書き進めてみて様子を見ながら全体の枠組みをいじってみたりする。
構図というものは抽象的な概念だけれど、僕の場合は単に「この作品はこれこれこういう話」という程度のものである。
考えてみると、作曲も似たようなプロセスを踏んでいる。
あるフレーズが思いついたら、「このフレーズをここで使おう」というのがわかる。フレーズを配置すると、次にその前後に入るべきフレーズがわかる。そうやっているうちに「これはこういう曲だよね」というイメージが固まってくる。そうして曲ができるわけだ。
「これはこういう作品だよね」というイメージみたいなものがどこからやってくるかというと、自分にもよくわからない。それは実際に手をつけて作業してみることではじめて浮かび上がってくるものだからである。

今度出る同人誌「擬」のあとがきでGARIO氏が僕と彼の方法論の違いについて軽く触れている。僕が「終わり」から書き始めるのに対し、彼は「はじめ」から書き始めるタイプである。僕にはそういう書き方ができないので尊敬する。
中高生の頃、大塚英志『キャラクター小説の作り方』を好んで読んでいたはずなのだが、僕にはどうもキャラクターというものを先に設定してそれらの振る舞いをシミュレートするという能力が圧倒的に欠けているらしい。ある状況下で特定の人物がどういう振る舞いをするか、ということについて想像が及ばないのである。もう少しいうならば、そこで想定されているキャラクターが自由に振る舞って物語を織りなすとして、それが最終的にお話として収束するという確信がどうにも抱けないのである。自分で書いているとどうしても「それで?」という感じでモチベーションが続かないわけだ。
たぶん「設定する」ということが苦手なんだと思う。何もない架空のキャラクターに関して、ある設定があったとして、「どうしてその設定があるのか」ということについて説明がつかないといやなのだ。そしてそれは、キャラクターを先に設定していくタイプの作品においては難しいことなのだと思う。
僕が得意なのは、ある状況をシミュレートして、そこに必要な要素をもとにキャラクター像を構築していく、というやり方である。ともすれば、それは機械的で、人間味のないキャラクターになりがちだ。まあだが、それが一概に悪いとは僕は思わない。メタボリックに「設定」を詰め込んだ作品を見ると、すごいなぁとは思うし、まねできないとも思う。大変な労力をかけたのだとも思う。ただ問題はそれがどれだけ作品全体に貢献しているのかしら、ということだ。どれだけ設定に力を込めてもつまらない作品はつまらない。厳密に科学的に考証されたからといって面白いとは限らない。もちろん面白い作品がきちんと科学的な考証を経ているということはプラスの価値を持つだろうけれど(個人的には厳密に考証された駄作よりは、大雑把な設定の良作の方が読みたい)。


スティーヴン=キングは最初の状況とキャラクターのおおまかな設定を与えておいて、あとはキャラクターに自由に振る舞わせる、と『小説作法』で書いていた(気がする)。主人公が小説家(しばしばキングは小説家を主人公にするけれど)である『ミザリー』はまさに彼自身の方法論についての独白であるようにも読めるし、まさにそういう書き方の持つダイナミックなーーそして危険なーー魅力がありありと描かれていると思う。
キングの作品は「○○が××する話」というまとめ方が非常にしやすいし、それを聞いた時点で面白い。『ミザリー』は「作家が狂信的なファンに監禁される話」だし、「刑務所のリタ・ヘイワース」(『ゴールデンボーイ』所収。「ショーシャンクの空に」という題で映画化されている)は「冤罪の銀行家が刑務所を脱獄する話」という風に読む前から「これこれこういう話」というのがわかりやすい。
そこで何が行われているのかというと、「問題の提示」ということなんだと思う。


“これこれこういう状況があります。登場人物はこうです。さあ、どうする? ”

作者は登場人物と一緒にいろいろ考えながら、うまく解をひねりだす。読者が納得できればセーフ、一件落着。でもときにはこの答えはちょっとないんじゃないの、っていう作品もある(怒られそうなので具体的な作品名を挙げるのは避ける)。


そういうタイプの作品がある一方で、カフカの未完の長編『審判』や短編「判決」みたいな作品を考えてみる。
『審判』はある男が身に覚えのないまま告発され、よくわからない裁判に翻弄されるままついには処刑されるという話であり、「判決」は結婚を伝えにいった青年が父親に糾弾され果ては死の宣告を受け、結果自ら死を選ぶことに至るという話である。
これらの作品は、結末をもってはじめて十分な要約が可能であるように思える。
『審判』は半ばで途絶しているが、最終章だけは作家の手によって用意されている。それは男が処刑されるシーンだ。筋においてはまったく中途半端なままに、男はある夜連れ出され、処刑される。不思議なことにこの作品においてはそれが実に「しっくりくる」のである。未完――確かに未完なのだが、違和感がない。それは「ある男が、身に覚えのないまま裁判にかけられ処刑される」という大枠の構造にむしろ合致しているからである。
この大枠の構造というものがなんなのかというと、先のキングの手法が「問題の提示」にあったとすれば「解法の提示」なのだと思う。結末と、問題の解き方だけが与えられていて、問題自体は作者が見つけにいかないといけない。求める結果が先にあり、理由を探しに行く――罰が先にあり、罪を探しに行くスタイルであるといえるかもしれない。ただしカフカの『審判』においては結局その罪は見つけられずじまいに終わるのだが。


「問題」と「解法」、とりあえず二つのスタイルというか図式を用意してみたものの、これらは別に対立するものではない。作品というものは重層的な構造を持っているのだから、ある部分では問題先行、またある部分では解法先行というのが当然あり得る。
たとえば推理小説は極端にいえば「誰に罪があるのかを明らかにする話」、つまりおおまかに「解法」が指定されている話であるといえるだろうが、それぞれの作品の個性はむしろ個別に設定される「問題」によって発揮される。
いわゆる純文学(この言葉の定義自体はいまだによくわからないけれど)ともなれば、より「問題」と「解法」は隠微になり、暗喩的・比喩的になる。読者の意識しないところで何かが提示され、何かが(心理的に)解決される。ときには、解決されずに捨て置かれた問題がもやもやとした読後感を残すこともある。そのあたりは作者のさじ加減ということになるだろう。


さて、何の話だったっけ。
そうそう、キャラクターというものをどう扱うべきか、ということについて考えたいのであった。
キング方式で行くと、当然問題それ自体が魅力的である必要があるのだが、それを解決するキャラクターも相応に魅力的でないといけない。なんだかわけのわからない人物がごちゃごちゃやっていて最後に適当なデウス・エクス・マキナがやってきて問題を解決してしまう、というのでは(おそらく)いけないのである。
一方で、「解決」方式で行くと必ずしも細かいパーソナリティは設定する必要がない。無名のN氏なりA氏なりで問題ないのだ。ただし一方で、そのような無個性で記号的な登場人物でも読者が飽きずに読み進めてくれるような問題を設定しなければならない。ある程度長さが必要になれば、当然キャラクターの個性というものが要求されてくるのだろう。
こうやって、問題と解決を何度も往復することによって魅力あるキャラクターができてくるのかな、というのが今のところの予想だけれど、それで実際うまく書けるかどうかについてははなはだ疑問の域を出ない。

まあ、書くしかないんでしょうね。書いて試すしかない。

よしなしごと、ということでとりあえず今日はこの辺で。


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